身近にある ”春” も見過ごすのはもったいないことです。

 

 

 

お隣の空き家の笹薮にフクジュソウ(福寿草)。

 

 

 

クジャクチョウ(孔雀蝶)が地面に貼りついています。

(写真、2枚イルカ?!)

 

 

 

フキノトウ(蕗の薹)、見頃/食べ頃…。

Gは”薹”の字がやっとその作りがわかったようです。

『ワオ ワオワオ〜(すぐ忘れるw!)』

ショートステイから帰宅したGにお母さんから伝言。

『aikoのブログ、泣けるヨ!』とのこと…。

 

     

 

<今日から新学期!トキは3年A組になりました。

担任は、今年度着任した男のセンセイ。

きのうの晩、同じクラスだといいなぁーとつぶやいていた3人の子が一緒で、うれしそうに帰ってきました。

さてどんな1年になるかな。がんばりすぎず、がんばって!たのしんで!

 

3年生になり、用意するものの1つに、リコーダーがありました。

ワタシが小学生のとき使っていたリコーダーを持ってきていたので、出したら、「トキ、それでいい!それがいい!」と言うので、これを持たせてみるつもりです。

ワタシのリコーダーの袋には「笛は生きている」と書かれています。

学校の一括購入で届いたその晩、父が何も聞かず、何も言わず、書いたものです。

トキとすざくに、その話もしました。

ママパパが「笛は生きている」と書いたこと。

それで嫌な思いもしたけど、ママはリコーダーを大事にしたこと。

そうして、ママはとってもリコーダーが上手になったこと。

振り回したり、机を笛で叩いたり、落としても平気な子もいるけど、大切にしてほしいこと。

そうしたら「トキ、袋もこれがいい!」と。「ボクもそれがいい!」とすざく。

その気持ちは、もうほんとうにうれしくて、有り難くて、胸がいっぱいになりました。

「トキ、ほんとにこのままでいいのに…」と何度も言ったけれど、汚れがあまりに気になるので、あの袋の周りにカバーを作りました。

スウェーデンで買った鳥のテキスタイル、ピアニカのバッグとお揃いの布で。

すこしだけ、リコーダーを教えて、練習しました。

疲れていて、うまくいかないとイライラするようだったので、すこしだけ。

こうやって、すこしゆずって、たくさん褒めて、トキが興味をもてることを増やしてあげられたらよいのだけれど…。

あしたはすざくの入学式。ドキドキです。お天気になりますように。>

 

「笛は生きている」は、Gの若い同僚(C子さん)が『落し物の笛はいい音が出ない。』と言ったのを聞いていて、お姉さんが3年生になった時リコーダーの布ケースに書いたものです。

 

続いて朱雀さんの入学式です。

 

      

 

兄弟で通学、どんな生活が待っているのでしょう。

 

 

 

入学式に友だちとのスナップ。十分「男組」ですね。

右、こちらも「男同士」!

『ワンワワン ワワワワン(今どき流行らない)』


『風邪ぶり返すんじゃないの!』とお母さんに注意されているGです。

 

 

 

狐の足跡が点々とついています。私はガラス越しに雪見です。

 

 

 

「春の雪」の造形をどう感じどう読み取るのでしょう。

Gは、フッと思い返して見ました。

 

<…はげしい絵である。大地はその豊饒な生産力に見合うだけの代償を農民の労働に要求し、労働のはげしさはその逞しい肉体や疲労やむさぼるような飲食や、無知と愚かしさと粗野とを必然的につくりだしたように見える。しかしここには人間が自然の一部として生き、自然のゆたかな恩寵とその反面であるあらあらしい生命力とに真向から取組んで、結びつき、充足しきっている姿がある。画家の目はたしかに何ものをも見逃してはいない、農民の放埓も貪りくらう食欲も、ぐったりと疲れ切ってあがってくるさまも、かれらの肉体が示すすべての特色も、だがそれをもふくめて、この地上にあるがままの姿において、人間はなんと大地と深く結びつき、生命をともにし、そして全体の生命を形作っていることだろう。人間は愚かなまま、無様なまま、あるがままにその全存在を肯定されて、大自然の中にいるのだ。

(中略)

すると、とわたしの連想はまたあの黄褐色の絵に帰っていく、あすこにはなにか労働以上のものがあったわけだ、と。労働とその報酬、所有関係を越えるなにかーーむろんそれは自然のなかの人間の生に関わるものーーがあって、だから画家はああいう自足しきった姿を描いたのだろうか、と。画家はほとんどこう言っているように見える、絵画芸術は現実のあるがままの人間の生を正しく描けさえすればそれでいいのだ、絵の価値をきめるのはそこに描かれたものの真実性だ、それは描かれたものが決めるだろう、愚かな者も、醜い者も、ずるい者も、狂った女も、存在はすべてあるがままに全肯定されているのではないか、それを正しく描き出す以外に芸術の用はない、と。事実ブリューゲルは、こういう農民の姿やいざりや乞食や盲人を世界の中心に据えて、それらの生の諸相をこそ適確に描いたけれど、それ以外にいわゆる美のための美を追求する絵など一枚も描かなかった。

(中略)

「麦刈り」の絵はしかし現実の模写ではない。いかにもリアルであるが、これは写生的リアリズムではなくて、彼が民衆の肉体と精神においてこれぞ真実の姿と見極めた精髄の形象化、従って様式化されたリアリズム、いわば彼の見た生の実相の表現といったものだろう。彼の絵のなかには民衆の生存の実相が表現されきっているが、それを表現しえたのはブリューゲルという画家だ。あれは、シェイクスピアの世界が民衆の生の実相にたいし完全に開かれていながら、彼自身の精神によって統一されているように、ブリューゲルという思想によってだけ統一されている。…>(「ブリューゲルへの旅」中野孝次 5麦刈り)

 

どんな脈略なんでしょう??か。『ワオワ ワオ〜ン(好きにして〜)』

 

 

 

「これはナンダ!」

4枚の写真が複合して現れました。画像操作のトラブルの結果です。

「春の雪」、私の窓越しの姿、Gの足元は四点杖の跡などなど。

 

     

 

横湯久美さんの作品に刺激されたのかな?


今朝、雪が積もっていました。

私はちょっとウッドデッキに出て見ましたが、すぐ部屋に戻りました。

 

 

 

Gは風邪の症状が良くなって、庭を眺めていました。

ギョウジャニンニクです。

 

       

 

雪は午後に消えて行きましたが、せっかく出た芽がどうなったか気になります。

 

 

 

クロッカスの芽は並んで出ていました。(左)

良く見るとチューリップの芽も確認できました。(右)

 

 

 

水仙の芽も並んで出ていました。(左)

一昨年の移植の成果です。(右)去年は13本の花が咲きました。

 

『ワワワワ ワン(楽しみね)』

Gが風邪で寝込んでいました。

お尻と腰が痛くて寝起きが困難!なんて言ってます。

ベッドで野球観戦なんかしていたせいじゃないですか。

ベッドから出て過ごしているうちに若干回復して来たようです。

 

     

 

お母さんは女子会でした。

今日のお土産は「蕎麦団子汁/赤飯/ビーフンサラダ/百合根の天ぷらと梅和え・エビチリ/スナックエンドウとミニトマト/蕗の薹味噌/文旦と苺/クレープ/胡瓜の漬物」。スッゲェ〜。

お腹がいっぱいで、クレープには手がつけられますんでした。Gと私。

『ワンワワ ワワワン ワン(ホントにご馳走さま)』

 

 

 

<ランバダ(LANBADA)>が思い出せずに数日間ジタバタしていたGですが、「バンダナ見たいな…Uu〜u…」。

今日、目出度く思い出せたってさ。

元々はボリビアのフォルクローレ「泣きながら」(増田はなのケーナ演奏YouTube)らしくて、ブラジルで1998年「LANBADA」としてヒットしたらしい、だって。