今日も青空が広がって、”釧路の秋”を感じます。

でも、私はもうウッドデッキに長い時間出ていません。

お母さんとGは不在者投票に行きました。

出口調査の「読売」「NHK」には手を横に振って通過したようです。

 

     

 

また、P・ブリューゲル、「子供の遊戯」(1560)です。

 

全体的描写は以下の説明があります。

<描かれている子供は、幼児から若者まで幅があり、後述のように様々な遊戯が細かく描き込まれている。およそ80種類の遊戯を認めることができる。ただ、画家の意図は、単に子供の遊戯を百科事典的に寄せ集めて示すことではなく、遊戯に打ち込む子供の真剣さと、一見それよりも重要な仕事に注ぐ大人の真剣さとを同列に並べることにあったと考えられる。神の目から見れば、子供の遊戯も大人の仕事も重要さでは変わらないということである。逆にいえば、市庁舎とも思われる大きな建物が子供たちで占められていることは、市政を取り仕切っている大人たちが神の目から見れば子供同然だという暗喩とも考えられる。このような発想は当時の文学にも見られるもので、1530年に出版された匿名のフランドルの詩では、人類は馬鹿げた遊びに夢中になっている子供と同じだという表現がある。>

細部についても、遊びの名称・内容が説明されています。

450年後の現在、どんな遊び伝承されているでしょう。

4〜50年前にはほぼ全部があったようですが…。

 

「人類は馬鹿げた遊びに夢中になっている子供と同じ」ならまだマシで、「人間の愚かさ(欲の皮のつっ張り合い)」に右往左往している世情を見るにつけ「面の皮を剥ぐ」視力が肝要に思うGです。

<衆議院議員選挙/最高裁判事国民審査>に迷わないのですね。

  

 

 

どういう風の吹き回しか、新釧路川に散歩だってGまで…。

 

 

 

人がいて、スマホやタブレットをかざして怪しかったワ。ゲームをやっていたみたい。

でも、すぐ解散していなくなったのでノビノビできた。

 

 

 

久しぶりにグルグル走って、お母さんに飛びついて、ウンPもして…。

 

 

 

シーソーのGに抱かさってあげました。Gは嬉しそう…。

『ワオ〜ンワオ〜ンワンワン(たま〜に付き合いもネ)』

 

 

球根を植えて、Gの「花壇」が少し広くなりました。

私はおやつの気配以外はまったりしています。左の後足のスネ?に突起が目立ってきました。

獣医師は『「いぼ」です。心配いらないです。』と言っているのですが…。

 

 

 

Gは朝から、T子さんからいただいた「杜鵑草(ホトトギス)」の写真を撮りに裏に出ました。

 

 

 

「チョットくどいわネ!」は覚悟のようです。

ホトトギスも種類があってこれはヤマジノホトトギスでしょうか、白い花です。

 

 

 

そうしたら、他にも蕾や実が気になったようです。

 

 

 

W氏のキキョウは黄色かもしれません。オンコの実が豊作です。(ジャム作りは却下される。)

 

 

 

青ジソの花が咲いて、種もこぼれそうです。(左奥)

紫の斑入りのホトトギスはまだ蕾です。(右)(下奥)

 

        

 

カメラの焦点操作(絞りを開けて背景をぼかす、など)ができないGです。

『ワオ〜ンワンワン(頑張って!)』

私の生活は淡々としたものでしたが、Gは忙しくしていました。

 

 

 

お母さんは私の抜け毛を拾っています。もう「依存症」に近いようです。

 

患者会で”温泉旅行(屈斜路)”に行ったGです。

今年は2回目、役員なんだって。お母さんに心得を聞かされていました。

 

 

 

紅葉とドラマティックな湖水、虹のおまけも付いていたんだって。

 

 

 

「まなぼっと」の展覧会にも足を運んだGです。

 

 

 

Gはこの作家のまとまった作品に初めて向かい合いました。

砂澤ビッキとの交流もあったようです。

カナダでいい仕事をしています。(ビッキと同じです。)

 

 

 

”古希”三人展<1965年江南高校卒3年F組同級生>だって。

 

 

 

「…東京在住同級生が古里釧路で絵の展覧会…」それなりの水準で古里釧路に刺激があったかもしれません。

 

 

 

墨とクルミインクと和紙のモダーンアート、Gは面白かったようです。

「LOVE」シリーズです。

 

P・ブリューゲル(父)の「悪女(狂女)フリート」にご忠臣のGです。

古い画集を出して開いたり、Webで画像検索などあれこれ楽しんでいます。

これは、2019年に修復が終わり公開される予定です。(アントワープ)

 

     

 

作家晩年の作品「盲人の寓話(1568)」を見て考えています。

「群盲評象」「群盲撫象」という言葉は世界に広がっているようです。

「盲人」は視覚障害を持つ人の総称でしょうが、一面的理解は偏見です。

 

     

 

「盲人の寓話」は「盲人が盲人を導く」という<ネーデルランドの諺>を表したもののようです。

また、聖書のキリストの比喩を典拠ともしていて、「彼らをそのままにしておけ。彼らは盲人を手引きする盲人である。もし盲人が盲人を手引きすれば、二人とも穴に落ち込むだろう。」との言葉に“人間の過ちやそれに気づかぬ愚かさへの警告”を読み取ろうとしたものか。Gは甚く感じ入っています。

 

M氏、T氏もメールで「混沌の政治状況」に明快な見解と決意を寄せています。

W氏は小一時間、思慮深い見解を述べて行きました。みな頷けるものでした。

450年前の作品から現在の日本の「政治状況」に警鐘を聞き取ることはできないでしょうか。

 

「希望」とは程遠い愚劣の亡者、権力の幻想に酩酊する体たらく、それらに「導かれる」奇怪な者ども…。

Gも一言、言いたいみたい。

『ワオ〜ン ワン(分かった!)』