今日は釧路芸術館で『無言館 遺された絵画展』の講演会がありました。

Gはお友だちを誘って、ランチ会も楽しんで会場に駆けつけました。

 

 

 

お母さんは2度目、根室のT夫妻、白樺のW夫妻と久しぶりの会食でした。

 

 

 

生憎の雨模様でしたが、道内各地からの参加もあり盛況でした。

 

 


村山槐多〜萬鉄五郎〜原精一の話、野見山暁治の<鎮魂の旅>の振返りも聞けたなぁ〜とG。

 

《「無言館」は反戦平和を描いた作品の美術館ではなく、『描きたい、描きたかった!』の叫びが聞こえる<希望と絶望の鬩ぎ合い>が展示されている美術館である》

《この美術館は絵を描くことが疎まれ非難される世の中で、絵を描く自由を擁護する人(身内に一人か二人か…)のいたことの証でもある。》 

 

「無言館」・・・彼らは何を描いたか。《表現は生理(現象)、即ち生きている証し。》、「ヒトはなぜ絵を描くか」の応えの一つを提示している。そうです。

  

    

 

 

《(略)好き・嫌い を尺度にすることを危惧したのがジョン・ケージでした。

 

好き・嫌いは、いくらでも操作されます。メディアやマスコミによって好きにさせられ、嫌いにさせられます。いつしか、自分の意見と思い込みます。快楽主義や反知性主義へど〜んと流れていきます。「これだけは譲れない」なんて言っても、本当にそう?好きでも嫌いでもない、ではなく、好きだし嫌い、それこそ実体に近い。

 

本当に好きなのか?嫌いなのか?を問うことは、表現の大きな役割になります。時間の流れを止めるからです。

 

同じく、「カッコイイ」「涙」にも要注意。

何でも片付けてしまう魔法の言葉「カッコイイ」「感動して涙が出ました」。ただし、その先には行きにくくなります。判断停止。

 

カッコイイで片付けないで、なぜカッコイイと思うのかまでは考えたらどうでしょう。そこには優生のDNAがある?

 

何かに感動し、泣いている自分に感動して、自己満足で終わってしまったらいかにも中途半端です。というか、モッタイナイ。

 

その(涙の)先にこそ、わくわくするような感覚や、発見や、共鳴・共振が待っているのです。もっと欲深く行きましょう。(略)》

齋藤徹さんは癌疾患の治療中ですが音楽活動を再開し、FaceBookでの発信も精力的です。

音楽(表現)の根源的意味を教えてくれます。とGは頷いています。

 

明日、みんなで稚内に行きま〜す。

コメント
タイトル〜「窪島」にしてくださいね。
  • by ゆっくり
  • 2017/05/29 8:10 PM
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